ひよっこ・最終 米づくりの実体長時間残業・重労働!地域の先輩方に聞いた60年前の稲刈り(氷見の里山編)

     
NHKの朝ドラ「ひよっこ」、もうすぐ最終話で、終わってしまいますね。 奥茨城での米作りも手作業で美談のように映し出されていますが、実際の農家さんたちの苦労は、半端ない。 2017年現在、70歳以上の先輩方が、小学生や中学生だった頃の1950年代(戦後昭和20年代頃)の稲刈りの様子を聞くことが出来ました。 170920_稲刈り深田 (3)圧縮-1 今から60年前の氷見の里山の子供たちは、稲刈り時期は、学校を終えた後に、自宅に帰っておやつとして味付けなし、素材そのままの蒸かしたジャガイモやサツマイモを食べてから田んぼに出かけたそうです。時には、床下に保存してあったジャガイモやサツマイモを生のままかじっていたとも聞きます。それだけ食糧難だったとのことです。 おやつを食べた子供たちは、山間の田んぼに向かいます。今のように整備されてない人がやっと通れる道を登ります。場所によっては、登るだけでも一苦労するようなところもあったようです。 170402_山道散策 (6)圧縮

今も残る昔の人が1人通ることが出来る山道

 山の田んぼに到着した子供たちは、稲刈りをしたり、藁を運ぶ作業を行ったそうです。今は、コンバインが、稲刈りから脱穀までをしてくれますが、その当時は、全て手作業です。 ハサガケを田んぼですると、天候によっては湿ってしまうので、お米のついた藁を子供から大人まで自宅近くに運び、夜にはさがけを行っていたそうです。 小学6年生くらいの男の子だと、40kg程度の藁を担ぎ山の田んぼから自宅ちかくのハサカケ場所まで運んだらしいです。子供でもりっぱな人足として働かなくてはならなかった時代、藁を運ぶ作業は、背負子(しょいこ)で藁を運ぶがしっかりと固定されることがなく、背負子と肩がずれるので、「肩が痛くて大変だった」と語ってくれました。また、稲刈り時期の農作業は、深夜近くまで続き、大変な重労働だったらしいです。 170924_稲刈り(134)圧縮-1 ですから、家の人が、娘には、『絶対農家の嫁になるな』と親が娘に話していたそうだとか・・・。また、嫁ぎ先の条件でも、お嫁さんが、米作りをしないことを条件にされて嫁いだという方もいらっしゃるほど、昔の米作りは、大変なものでした。 170903_稲刈り (106)圧縮 今回先輩方が話してくれた、山の田んぼも大変ですが、氷見市の街中の地区である十二町潟付近での米づくりは、今のような排水処理場がなく、常に水があって、小舟を出して、稲刈りをしていたそうです。それだけ、水が多く、苦労されていたらしいです。

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